ハロー、ハロー







 ハローハロー、マイダーリン。
 話したいことがたくさんあるんだ。


「それでさ、それで……えーっと、今どこまで話したっけ」
『ジュリオと一緒に、裏通りでジェラート屋を見つけたところまで』
「そうそう、それ。山ほど種類があってさ、山盛りのジェラードの前に、レディたちも山盛り。ジュリオが店に入った途端に……ハハ、店員も客も、みーんなポーッとしてたぜ。コマドリの巣みてーだった店内が、急にシーンとしちまって」
『おとぎ話の国の王子が抜け出して来たとでも思ったんだろう。ボンドーネ当主の正装を見慣れたデイバンのご婦人がたでも、よく見とれているくらいだ』
「あーあー、だよなぁ。あいつとパーティーに行くと、いつもの三倍くらい視線感じるわ」
『ジャンもよく、見られてるけどね? ハハ、気づいていないだろうな、お前』
「そりゃモー、あくまでボスですから」
『そういう視線以外にも、な。……NYでも、老人以外は転がさないでおくれよ。まったく、この世の中には趣味の良い連中が多くて困る。俺のように』
「ぬかせボケ。……そろそろ十分くらい経つか? 切るか」
『そんなに早く切らなくても大丈夫さ』
「バッカ。長距離だろ、この電話。積んだコインを延々電話機に突っ込んでる気分よ。心臓に悪いっつーの」

 連絡用に用意された部屋の、消毒された回線の電話機を前に、カポであるジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテは、ソファにふんぞり返ってデイバンの部下との連絡を──と言うことになっているが、実際の所は、幹部である恋人との会話で、緊張に固まった心身を解している度合いの方が強い。

「……ベルナルド」

 ふと恋人を呼んだジャンの声は、やけに情けなくて、力ない。弱音を含んだ声は、一度出してしまえば雪崩のようにジャンの胸の内の弱さを音にしてしまう。

「早くデイバンに帰りてえよ、あんたに話したいことだらけで頭がブッ壊れそうだ」

 ジャンの吐き出した言葉に、電話の向こうでベルナルドが息を飲んだのがわかった。気配だけで言葉が返って来ないことに焦れて、ジャンは少し拗ねたように、なんだよう、と呟く。

「なんか、言えよ」
『……参ったな。俺は自分を、我慢強い方だと思ったんだが……参った。朝までこのままお前の声を聴いていたくなっちまう』
「このアホ。……もう切る、あんたの言ったソレ、マジでやっちまいそうだし」
『うん。そうだな。……うん』
「……よーし、切るぞ。連絡アリガトな、ベルナルド」
『ハニー』
「ん? どったの、ダーリン」
『俺は、な。ジャン。I miss youの言葉の意味を、お前とこうなってから、ようやく理解した気がするよ』
「ベルナルド──」

 ばかやろうさん、と返した声は少し掠れていて、それを誤魔化すために、ジャンは大慌てで通話を切った。受話器を握っていた手で頭を抱え、カッと熱くなった頬と恋しさで熱い胸をどうして良いものか持て余す。
 ――なんだこりゃ。俺は何かの病気か? はしかのようなものか?







『──ハロー。ジャンか?』
「ルキーノ? ベルナルドかと思った」
『なんだ、ダーリン&ハニーなネタに付き合って欲しい気分だったのか?』

 電話の向こうで男前な声が笑っている。少し懐かしいような気のする聞き慣れた声に、ジャンも笑う。

『今日のコールは俺だ。ベルナルドのやつは、あいつがやってる会社の株主総会で夜まで留守だぜ。何か伝言があるなら伝えておくが』
「いンや、だいじょぶ。元気そーで何よりだわ、ルッキーニ」
『カヴォロ。どうだ、そっちの様子は?』
「安全なんだけどさ、毎日毎晩ペンギンとタヌキとおっぱいしか見てねーよ……」

 接待とパーティーで愛嬌を振りまく毎日だと嘆けば、ルキーノが電話の向こうでおかしげに喉奥で笑った。

『まあ、たまにはそんな時間もいいだろ。バカンスのように気は休まらんかもしれないが、お前の顔も、そちらの親分さんの中にお前を気に入ってるシニョーレがいらっしゃるってことも幾らか広めておけば、今後NYで仕事をする時に少しばかり話が通りやすい』
「なーに、こっちにカジノでも出す気なのけ?」
『ああ、将来的にはそれもいいな。ベルナルドに相談してみるか』

 ベルナルド、の名は、やけにはっきりとジャンの耳に飛び込んで来る。

「──あいつ、元気?」
『ん? なんだ、ジャン。昨日はあいつがお前に定期連絡入れたんじゃないのか?』
「あ、いや、そーなんだけどさ。ほ、ホラ、まーたあいつのことだから徹夜でもしてんじゃねえのかなって」
『ああ、今朝早くあいつの執務室に部下が出入りしてたな。徹夜だったらしい──お前の勘通りだ』
「ハ、ハハ、そっか、ハハハ」

 褒めるような響きのルキーノの声に、勘、ではなくただの恋人の様子を伺いたかっただけと言う事実の後ろめたさで、ジャンは無駄にカラ笑いをした。







「ジャン、さん?」
「ン、ああ──悪ィ、ぼーっとしてた」

 ルキーノとの電話のことを思い出していたら、少し、周囲への反応をなくしてしまっていたらしい。ジュリオの呼びかけにハッとした。いまは出先からの帰り道、少し気分転換に歩こうとホテルから数百メートル離れた位置で車を降り、ジュリオと歩いている。
 今日は、六月にしてはやけに冷えた。地下の蒸気配管から地上に洩れてくる蒸気が、冬でもないのに真っ白に見える。寒さを気遣って、ジュリオはジャンの風避けになる位置に立つと、顔を覗いて様子を伺いに来た。

「風邪、は……引いていないようですが。疲れがたまっているのかもしれません。夜はますます冷えますから、外でなく、ホテルで何かルームサービスでも……?」
「そうだな、そうすっか……」

 言われてみれば体が少し重たい。寒さの緊張で筋肉が強張っているだけなら良いが、旅先で体調を崩してもいけない。最近の気の弱りよう──ベルナルド恋しさ、も、体調が悪いせいかもしれないな、と一瞬考えて、寒さと一緒に寂しさが体に染み込みかけたが、ジャンはジュリオを安心させるためにニカリと笑んだ。

「俺、カロッツァが食いたいけどジュリオはどうよ?」
「俺もです」
「ハハ、安上がりだな俺たち」
「皆、で、……クリスマスの後にめしを食ったことが、ありましたよね」
「ああ、あったねえ。俺と、他のやつらと、カヴァッリじいさまと、あと忘れてもいい感じのクソオヤジ。こないだ、飲み屋に連れてかれて次の日ひでえ二日酔いになった恨みは忘れてねーぞチクショウ」

 ジャンが言うと、ふふ、とジュリオは目を細めて笑う。

「あのときのカロッツァが、食べたい……です」

 皆で。と言う声は小さく、だが、しっかりとジャンの耳に届く。少し驚きながら見たジュリオの顔は、少し気恥ずかしげにジャンを見ていた。ジュリオも、あの場所に帰りたいと言う気持ちがあるのだろう──そう思うと、ほっと体の緊張が緩んだ。

「俺もだ!」

 ぐしゃぐしゃとジャンがジュリオの頭を撫で回すと、彼はサラサラの黒髪が乱れて台無しになりながらも笑っている。

「早くデイバンに帰りてえな」
「はい」







「ハロー、こちら……アレ? 今日はイヴァンちゃんなのけ?」
『ちゃん付けんなっつうの、どうせなら様をつけろよ』
「やだっぴゅー。ベルナルドは?」
『て、テメーなあ、回線繋がってしょっぱなからそれかよ!』

 拗ねて噛み付いて来るイヴァンの声に、ああ元気だ、と嬉しくなってジャンはニヤニヤ笑いながら受話器を反対側の耳へと持ち直す。

「だってイヴァンが元気なのは声聞きゃわかるだろ。元気そうで安心したわ、イヴァン。他の連中はどうよ?」
『オメーも元気そうじゃねえか、心配して損した。……ベルナルドの野郎は、今日、ミシガンから来る貨物列車が一本事故ってよ、事後処理の書類と電話に埋もれてる。ルキーノの方はいつも通り。俺らが出なきゃいけねえような問題はそんくらいだ』
「そっか、サンキュー。フラッグデーには帰るわ」
『そうしとけ。大体よ、物騒な話し合いでもねえのに、なんで何週間もNYに居座らされてんだよ』
「いまさらだわァ。なんか、こっちの親分さんが一人、俺のことえらく気に入ってくれてさー。NYの楽しみを全部味わってけーってことらしいよ。昨夜はブロードウェイ行った」
『ジジィ転がしもたいがいにしとけよ』
「イヴァンちゃんもね。早く帰って来いって言っていいのよ」
『早く帰って来いよ』
「どうしたの、お前。優しくてなんかキモチワルイ。寂しいの?」
『うるせえ! ちげえよ、ボケ! だから、あれだ! オメーがいねえと、あのもやしがますますもやしになって行くからなあ。あいつの最近の一日のメシの数、教えてやろうか?』
「やっぱし食ってねえのか?」

 心配で苦くなった声に、電話の向こうでイヴァンが笑った。

『安心しろ。食い忘れまくってるってあいつの部下が嘆いてたけどな、なんだかんだで、俺もルキーノもメシ差し入れてやってっからよ。オメーがいりゃあ、もう少し腹時計が利いてる気がすんだけどなあ』











「今回の出張は、長かったなァ……」
「ヨーロッパ行きよりは比べ物にならないほど帰りやすいですが、NYも近場ではありませんね。お疲れ様です、カポ」

 飛行場まで迎えてくれたベルナルドの部下、眼鏡の似合うジョバンニが、本部にある執務室までジャンに付いた。脱いだコートと帽子の片付けは彼に任せ、ジャンは久しぶりの自分の椅子でほっと息を吐く。

「あー、ところでジョバンニ君。ベルナルド……オルトラーニはどうした?」
「ドン・オルトラーニは本日、関係会社の創立パーティーへ出席、その後は建設会社と土地の視察の予定です」
「ア、ソウ。ありがとちゃん」

 礼を言って、少し休む、と下がらせる。しばらく椅子に深く身を沈めた後、ジャンは、誰もいない留守中のベルナルドの執務室へ向かっていた。





 久しぶりのベルナルドの執務室は、留守なだけあってしんと静まっている。ガシャンと小さな音を立てて扉がしまってしまえば、と置くの、時計のかすかな音しか聞こえない。
 呼吸すると、乾いた空気と、微かなインクと、煙草の匂いがする。親しんだ執務室の香りだ。NYとはやっぱり空気が少し違うな、と小さく鼻を鳴らして嗅ぎながら、ジャンはベルナルドの机に歩み寄る。
 机の上は、数週間でがらりと変わるはずもないが、見覚えのある光景があった。メモと書類などの区分わけされた紙の山がいくつか。そして真ん中には、そこだけ見慣れない四角い封筒があった。

「ん?」

 普通の封筒より硬い紙で出来ていて、見てみると、表書きは「ジャンカルロ・ブルボン・デル・モンテ」──ジャンの名だ。その下にはベルナルドの署名。ご丁寧に封蝋まで施されているので、ジャンかベルナルド以外は開けないだろう。
 なんだ? と首をかしげながらジャンが封をしている蝋をぺりぺりと剥がすと、封筒の中に見えたのは、黒く、幾つも円状に筋の入ったもの。

「円盤?」

 それを見た瞬間、ジャンの脳裏にひとつの記憶が生々しくよぎった。あれは出張中、電話越しに、ベルナルドが促した、声だけでの──

「またなんか録音しやがったのか、あのポルノ野郎……!」

 低く唸って、ジャンは勢い良くレコードを封筒から引き出す。そして部屋の端にあった再生機に慌しくセットする。部下や誰かがジャンの留守に気づいて探しに来る前に、手早く確認を済ませなくてはいけない。確認をせずに封筒に戻すには、不穏な気配がレコードからは滲み出ている。

「ヘンなモンが入ってたら速攻叩き割ってやる、この……」

 小声で喚きながらレコードに針を落とす──と、ジャンは、ぽかんと口を開くことになった。


 ────ハロー、マイハニー。


「へ?」


 ────聞こえるかい? 愛しい俺の、ジャンカルロ。


 聞こえてくるのは変な声などではなく、落ち着いたベルナルドの声だった。ジャンの名が入っていて、しかも愛しいなどと、冗談に聞こえない声音で話している。仕事用ではない。他人のいる場所で出す声ではない。二人きり、恋人のジャンカルロ相手への、声だ。


 ────今日は六月一日、天気は晴れだ。デイバン市全域、雲ひとつない快晴。電話をかけたらお前は留守だったから、こうしてレコードに録音している。お前のことを想像しながらね。言っておくが、変な……俺にとっては素晴らしい妄想は、していない。


 ジャンは両手で顔を覆い、俯いた。一言多い。音声は途切れ、五秒ほどのブランクのあと、また音が流れ出す。


 ────ハロー、ハニー。今日は六月五日。一日仕事で出ていて、帰ったらこんな時間だった。……と言ってもわからないか、シンデレラの魔法が解ける五分前だよ。お前はベッドでぐっすり良い夢でも見てる頃かな。俺以外のやつの夢を見ていたりしたら、妬けるね。


「ば、ばか……!」


 ────おはよう、ハニー。今日の夜は、ルキーノとイヴァンと一緒にメシだ。お前とジュリオがいない所で、三人だけでリストランテに行くなんて初めてかもしれないな。あいつらもお前に飢えているんだろうな……しょっちゅう連絡を取ってる俺に、お前の話を聞きたがるよ。フフ、CR:5の幹部が、お前の話を聞きたくてソワソワしているんだ……お前の部下たちは可愛いものだろう、ジャン?


「あんただけじゃなくて、ルキーノもイヴァンも何やってんだっつーの……マンマの気分よ」


 ────お前たちの好きそうなドルチェが出るか確認して来るよ。戻って来たら、五人で食事に行こう。


 その次に始まった声は、ジャン、と少し低い声でジャンの名を呼び、困っていることを誤魔化すように笑う声が小さく続いた。


 ────……俺も、お前と話がしたい。一緒にいれば言葉にしなくて済むことも、離れていると、言葉にして、伝えて、伝えられたくて……俺も、頭がブッ壊れちまいそうだ。だから、こんな真似をしている。一人で録音機に向かって、お前を……想ってる。


 あの日だ、とジャンは察した。
 ジャンが思わず恋しさを口にしてしまった日の後に録音したものだろう。
 毎日一枚、録音したレコード。話したくて、声が聞きたくて、たまらなかった。たかが数週間だけだ、と笑ってしまうような短い別れだと言うのに、長く感じた。それは、ベルナルドも──だったのだろう。

「ベルナルド──」


 こみ上げた衝動のままに、名を呼ぶと──


「ジャン!」

 ──不意に後ろから抱き締められた。
 はぁ、はぁ、と荒い息。慌てて走って来たのが丸わかりだ。ドアの前で息を整えもせず、飛び込んで来たのだろう。普段ならばドアを勢いよく開ける音でジャンも気付くだろうに、レコードの音に集中し過ぎていて気がつかなかった。嗅ぎ慣れた煙草の香りと香水の混じった匂いが鼻先を掠める。

 泣きそうだ、と思った。
 たかがこんなことで、とも思った。

 長い間帰っていなかった故郷に帰った時は、こんな気がするのだろうか。あたたかく包み込まれ、自然と体の力が抜ける。安心感と、思い出に基づいた愛が、そこにはある。

「お帰り、ジャン」
「──ただいま、ベルナルド!」







2011.03.05