この世は愛で満ちている







「ふあー、食ったなあ。もう腹はち切れそーよ、俺」

 ジャンはベッドに仰向けに倒れこみ、きれいにベッドメイクされたそこに盛大な皺を寄せる。スプリングに僅かに跳ね返された細い体は、四肢を伸ばして寛いだ風情だ。
 俺はそれを眺めながら着ていたスーツの上着を脱いで片付け、ネクタイもベルトも外す。さすがに飲み過ぎていてきっちりとした格好が息苦しく感じる。今日は良く呑んだ。俺だけでなくジャンも、ルキーノもジュリオもイヴァンも、アレッサンドロ親父は言うまでもなく、カヴァッリ顧問もいつもより酒量が多かった。祝いの酒は美味いものだ。


 最初は役員会のお歴々や他の関係会社などのいわゆる客人も参加のパーティーではそこそこ落ち着いた酒量だったが、その後、内輪だけの祝いとして移動した店にはつまみの御馳走と溺れることが出来るほどの酒が用意されていて、結果、俺たちはしこたま呑んだ。
 今日は、ジャンカルロの誕生日だった。


 目を閉じたジャンの顔は頬が緩み、途切れ途切れの鼻歌さえも歌っていて、見るからに上機嫌だ。少し楽な格好になった俺がベッドに近寄ると、ジャンは酒にうっすら上気した顔を向け、ん、と軽く顎を上げてみせる。

「おじちゃん、ネクタイ解いて」
「はいはい」

 ねだられるままにタイのノットを解いて、シャツの襟元を緩めてやる。いつものように白い肌が露出すると思ったが、首は酒の効果でうっすら赤い。ネクタイの端を引くと、タイの生地と襟の生地が擦れて、しゅ、と音を立てた。
 襟元が緩まると、ふうっと解放感に満ちた息を吐いたジャンは、目を閉じたままでふらふらと右手を彷徨わせた。俺の腕を探していたらしい手は俺の肩口に触れると止まり、とんとん、とそこを叩く。労わる仕草にも似たそれは、ネクタイを緩めたことへの感謝なのだろうかと思うと、自然とあたたかい気持ちになった。今だけではない、今日はずっとこんな気持ちだ。ジャンの誕生日なのだから。

 プレーゴの言葉の代わりにジャンの髪を撫でると、手のひらへ犬猫のように頬ずりされた。俺は親指でジャンの頬骨の上を撫でる。ジャンは心地よさにかアルコールのせいか小さく欠伸をし、俺の肩に触れていた手をぱたりとシーツの上へ落とした。

「服も脱がせてくれよ、ダーリン。やらしくないヤツでヨロシク〜」
「ハニーの頼みなら、と言いたいところだが、最後のそいつだけは自信がないね」
「いやーん」

 中指の先でわざとらしく鎖骨を撫でると、ジャンは俺の手から身を庇うように背を丸めて、横に寝転がった。声は笑っていて、顔も笑っていた。脱がせられないぞ、と俺も笑って声をかけ、仰向けにさせるため肩を押すと、抵抗もなくまたコロンと転がる。
 ジャンの薄く開いた唇から洩れる呼吸はゆっくりとしたもので、もうすぐ寝てしまうだろうと予想がついた。
 酒が入っているせいもあるのか、今のジャンは、まるで赤子のように無防備だ。俺だけしかいないから、と言う理由だと嬉しいんだけどね――と俺は夢想する。
 カポ・デル・モンテが広々寝るために誂えられたダブルベッドの半分は誰かを待つように空いていて、俺は、そのことも嬉しい。

 ゆっくり呼吸を繰り返すジャンは、浅い眠りに入っているのかもしれない。俺は力の抜いたジャンの手足を持ち上げたり移動させたりしながら服を脱がせ、自分も服を脱いでしまうと、アッパーシーツと羽毛布団をジャンの体の下から引き出し、代わりにジャンの体と自分の体をその下に押しやった。
 さらりとしたシーツの感触がアルコールで火照った体に心地よい。ジャンも同じなのだろう、とろりと酔いに蕩けた蜂蜜色の目を覗かせた彼は、フフ、と鼻にかかった笑い声を洩らして俺を見る。

「なんだい、ジャン」
「あんただってやれば出来るくせに、って思っただけだよ……ったく」
「いつもはやる必要がない、だろう。ハニー?」

 やらしくないヤツでヨロシク、の言葉を思い出しながらウインクを一つしてやると、エロオヤジ、とジャンは肩を震わせて笑った。疲労と酒と人々からの祝いで満ちたジャンをこのまま寝せてやろうと思ったが、シーツの中、裸で二人きりと言う状況は、俺の決意をほんの少しだけ揺らがせる。
 顔を寄せると、ジャンは待っていたかのように薄く口を開いたので、俺と同罪だ。ジャンも、やらしくないヤツでヨロシクと言った気持ちが揺らいでいるのだろう。明日の朝は平日であり、酒浸りになった体と頭でいつも通りに起きなくてはならないと言うことがわかっていても、だ。
 力の入っていない唇は、舌先をしのばせるとすぐに俺を受け入れるくらいに開いた。
 互いに、パーティーの間じゅう酒漬けにした舌を味わう。ワイン、ブランデー、ウイスキー、カクテル。種類も様々なアルコールは、禁酒時代でも手に入ったものだが、おおっぴらに飲めるとなるとそれなりに感慨があった。酒で儲けられる時代は終わったのだ。
 絡んだ唾液が混ざり合って、俺とジャンの舌の間、つ、と短く伸びた。舌先をほんの軽く噛んでやると、ジャンはかすかに震える。浅い痛みに快感を拾うようになったジャンを、俺は、両腕の中に囲い込んで――額にキスを落とす。

「おやすみ、ジャン」
「おやすみ、ベルナルド……」

 ジャンの声はもうすでに半分眠りの中だ。それでもおやすみの挨拶を返してくれるジャンが俺は嬉しい。



「ありがとう、ジャンカルロ」


 もう聞こえていないだろうジャンの寝顔に、俺はそっと囁きかける。お前と神に感謝をする。アレッサンドロ親父にも。お前を育んで来たもの、取り巻いているもの、ここに俺がいられること、俺が生きていること、俺の今までの人生と、ルーツであるイタリアの血と……それらすべてのものに。







2010.10.10