Love Letter




 愛をこめて。





 その言葉で手紙は終わっている。
 サインはベルナルド・オルトラーニ。
 オルトラーニの「i」の文字までしっかり読んで、ジャンは紙を丁寧に畳み直した。


 ジャンがまだソルジャーになってから間もない頃だった。
 ベルナルドと組んだ仕事は先日、一区切りついた。ジャンの情報収集の手腕に加えラッキードッグの名通りのタイミングの良さもあり、着飾った鼠から香るかぐわしいドブの匂いは、予定より早く嗅ぎつけられた。
 ファミーリアの裏切り者は、ベルナルドが上手に掃除するだろう。ジャンの仕事は、ベルナルドが匂いを嗅ぎつけるまでの手伝いだ。
 次のジャンの仕事はドン・カヴァッリからの頼まれごとで、刑務所の中へ伝言を届けに行く。
 そうすればまた一年ほどベルナルドと会うことはない。時々、弁護士を通じて煙草や日用品の差し入れをしてくれるかもしれないが、ただのソルジャーに面会に来るほど幹部のベルナルドも暇ではないことをジャンは知っている。

 ジャンは、刑務所へのバカンスに旅立つ前日の朝、最後にベルナルドの顔でも見てから行くかと思い立ち、ここ最近の仕事の基地に使っていたアパートへ向かった。
 そこにベルナルドがいるとは限らない。スケジュールを知って動いたわけではなかった。仕事中、基地に寝泊りをしていたのがジャンとベルナルドで、頻繁に顔を合わせていた場所がそこだと言うだけだ。
 その日、ジャンは気分が良かった。必要ならきっとベルナルドと会えるだろうと、自分のラッキーに賭け、無駄足になるかもしれない場所へ出向くくらいには。

「勝負」

 口の中で呟いてアパートの階段を上がる。だがその三十秒後、ジャンは、ワンペアも揃わないカードを手に持っている気分になった。
 訪ねた室内には、黒いサングラスに黒のスーツ、一人でいるのにネクタイを少しも緩めていないベルナルドの部下の姿だけで、ジャンの顔をよく知っている部下は、顔を合わせるなりドン・オルトラーニならここにはいないと言った。
 
「ベルナルド、休みなのけ?」
「いや、出張だ。行き先はデトロイト、急に向こうの会合に呼び出されて、デイバンへは明後日まで戻れない」

 少しもそんな予定を聞いていなかったジャンが、へー、と相槌を打つと、ベルナルドの部下は僅かな間を置いてから、コホンとわざとらしく咳払いをする。
 
「…と言うことになっている」

 少し小さな声で付け足された言葉にジャンは、ああ、と声を洩らして笑った。
 
「そゆこと…。最近見張られっぱなしでストレスのたまっていたネズミちゃんが、こわーいマンマがお留守の隙に暴れてボロ出してくれるといいな」
「まったくだな」

 苦笑したベルナルドの部下は、もう行け、とジャンの背を軽く叩く。
 
「この部屋は明日にも引き払う予定だ」
「――ア、ソウ」

 ジャンの返した声は、あくまでも軽い。
 ベルナルドの部下もそう受け取っただろう。明るく、軽い、ドン・オルトラーニと懇意の、若い下っ端のソルジャー。

 ラッキードッグ。
 
 そのイメージが崩れないうちに、ジャンは階段を下りる。もうこのねぐらはなくなるのだと言うことを改めて感じて、気分は急に重くなっていた。そして、そのことが自分で多少ショックだった。
 孤児院を出てからと言うもの、誰かと同じ家に帰ったことはない。ずっと一人暮らしで、帰ってタダイマを言う相手は暗い部屋だし、誰かと付き合ってもそこまでの関係になるほど長続きはしたことがない。
 だからだろうか。ベルナルドと一時的でもタダイマとオカエリを言い合うのは、それなりに楽しかった。後ろ髪を一房引かれる程度には。
 ママゴトは好きじゃなかったはずなのにおかしい、と妙に落ち着かない気持ちでアパートを出る。薄暗いアパートの階段を上る時も降りる時も、目指す部屋にはベルナルドがいるか、一緒に部屋へ戻る時か、それとも後から帰って来る時だったので、いつも楽しかった。
 しけた気分だ。苦笑を浮かべた唇に煙草を銜えようとしたが、それも丁度切らしていて胸ポケットが軽い。
 
「ガムでも買うけ」

 甘ったるい嘘くさい味が欲しい。丁度見えて来たスタンドへ向かって、ジャンは進行方向を修正する。

 情報収集のためにこの近辺を頻繁にうろついていたため、スタンドの店員とは顔見知りになった。
 年がアレッサンドロと同じくらいの店員は、頬のラインもアレッサンドロとどことなく似ている。親近感を覚えたジャンはガムが切れるとここへ来て補充し、ついでの仕事として、近くに住む裏切り者と思わしき男がこの前の道路を何時頃によく通るかなどの話を調達して来たりもしていた。
 ベルナルドが一度その会話を見て、ジャンは本当に親父くらいの年齢にモテるな、と感心していたのが可笑しかったっけ――と余計なことを思い出す。
 懐かしがるほど昔の出来事でもないのに、妙に遠い思い出のような気がした。

「チャオ、おっちゃん」

 奇妙な気分を振り払うように、ジャンは見知った顔へと明るく声をかける。
 
「いつものバブルガムに新しい味出たって聞いたんだけど?」
「入ってるよ、ストロベリーバニラ味だろ?」
「それそれ。サンキュー」

 ポケットに突っ込んでいたコインを出し、代金分数えて渡す。コインと代わりに差し出されたのは、派手なピンクの外装をしたガムと、地味な白地の封筒だった。
 
「…おっちゃん、ナニコレ。手紙のオマケ付きなのけ?」
「兄ちゃんから預かった手紙だよ。来なかったら焼いてくれってな。お前さんが来て良かった」
「にいちゃん? ……あー、ハイハイ、ウチの兄貴のことね」

 誰のことだかすぐに思い出して、ジャンは差し出された封筒を受け取った。

 ここの店員は、いつもガムを買う若い男と、若い男と一緒に来てニュースペーパーを買う男が兄弟にしては似ていなく、仕事仲間にしては親しげだが友人にしてはいささか年が離れていることに興味を持って「兄弟か?」と聞いて来たことがあったことをジャンは思い出した。その時に、ジャンがすかさず「そーそー、腹違いの」と答え、ベルナルドも苦笑しながら否定しなかったので、店員は二人をそう認識している。
 ファミーリアとして二人ともアレッサンドロをオヤジと呼ぶのだから嘘ではないと後でベルナルドに言うと、ベルナルドは困ったように眉尻を下げて笑っていた。

「兄ちゃんから聞いたけどよ、じいさんの用事で、引っ越すんだって? お前さん、こないだここいらに引っ越して来たばっかりだろう、大変だなあ」
「しょーがねーさ。ウチのオジイチャンもオヤジも遠くまではなかなか行けないんだ」

 肩を竦めて、チャオ、と店員に別れを言う。スタンドから数歩分離れてから、ジャンは封筒の綴じ目で固まっていた封蝋をぺりぺりと剥がし、中から四折りの紙を取り出した。
 人に預けるくらいだ、街中で読んでも構わない程度の内容だろうと判断して開く。
 ベルナルドの書いた字が並んでいた。



『お前のおじいちゃんから、お前の次の仕事の話を聞いたよ。俺はどうしても外せない出張で、今日は一日デイバンの外にいるから見送りは出来ないが、帰って来たら酒を飲みに行こう。ここ暫く、お前と過ごす時間が多くて楽しかった。
 親愛なる家族、ジャンカルロへ。愛をこめて。』



 愛をこめて。
 ハニー、といつものおふざけの文句は入っていなかったせいか、やけにその一言が真面目に映った。
 有能で優しい年上の友人――それが、ジャンからベルナルドへの印象だ。
 ファミーリアへ忠誠と愛を注ぐ彼が、人間相手に一体どう愛を囁くのか、今まで好奇心が湧かなかったわけじゃない。女の一人くらいいるんだろうな、とは思っていたが、ベルナルドは、ジャンに女の影を見せたことがなかった。過去の話などもしたことがない。色恋めいた素振りなど、せいぜい、自分とのダーリン&ハニーのふざけたじゃれ合い止まりだった。
 ベルナルドはどんな顔をしてこの文字を書いたのだろうか。やはり自分をハニーと呼ぶ時のように、しれっと書いたのだろうか。おそらくそうだろうなとジャンは思う。
 愛してるぜダーリン、俺もだよハニー、などとふざける時のように。お互いしれっとふざけながらも、――たとえ、何事にも一瞬考えて動いているような壁をベルナルドとの間に感じていても――気の置けない相手への親愛をこめて、書かれているはずだ。
 自分へ、悪意のある嘘は吐かない。一緒にいて気楽で、信頼の出来る男。それも、ジャンの中のベルナルド像だった。

「――フーン?」

 柔らかな親愛の詰まった紙を、ジャンは太陽に透かす。
 インクで書かれた文字が淡いブルーグレーに透けた。子供の頃にガラス玉を太陽に透かした時のような、宝物が手元にある気持ちが胸の端に湧くのを、ジャンは目を細めながら感じる。
 会えなかった、会いたかった相手が自分へ向けた文字。
 これが自分のものだと思うことは、気分が良かった。アパートを出た時の気分の重さはもうどこにもない。ジャンは踵を返すと、今来たスタンドの中を覗き込む。
 忘れ物かと寄って来てくれた店員に、ポケットからダイムを一枚出して渡した。

「なあ、もし今度ウチの兄貴が来たら言っといてくれねえか?」
「いいぜ、なんて言っておけばいいんだ?」
「俺も愛してるぜ、ダーリン。って」

 わざと甘ったるい声音で言ってやる。ぎょっとした顔の店員に、チャオ、と笑いかけてジャンは軽い足取りで街を歩き出した。
 ベルナルドは、手紙がジャンに渡ったか確認に来るはずだ。そして店員に胡乱な目で見られることだろう。悪戯を仕掛け終わったジャンは、鼻歌を歌いながら自分の部屋へ帰る。

 帰って寝てしまえば、明日は刑務所の中だ。きっとすぐに明日が来る。それなりにフラフラと女との付き合いはあったが、今はサヨナラを言いに行く相手もいない。
 無味乾燥な楽しい監獄ライフの前夜、ベッドに入って思い出すのは、上着のポケットにある愛のこもった手紙の差出人のことだろうなと思う。
 帰り道、なぜだか自分でもわからなかったが、とても気分が良かった。



















 愛をこめて。


 その言葉で手紙は終わっている。
 サインはベルナルド・オルトラーニ。
 オルトラーニの「i」の文字までしっかり読んで、ジャンは紙を丁寧に畳み直した。
 カポの執務室の中にはコーヒーの香りが漂っている。ジャンは自分の机に置かれたコーヒーカップをソーサーから持ち上げ、薫り高い苦味で舌を湿らせた。先ほど部下が淹れて来たばかりのコーヒーは、風味を少しも損なわない状態でジャンの舌を喜ばせる。すっかりベルナルドの癖が移った。

「……ハニー、その手紙まだ取ってあったのか……」

 机の前で立ち尽くしたベルナルドは、「コーヒー来るまで懐かしいモンでも見るけ?」と手招いたジャンに手紙を見せられてから、ずっと頬を微妙に引きつらせて動揺を隠せずにいた。部下がジャンのコーヒーと一緒に執務机へ置いてくれたコーヒーを飲むのもすっかり忘れているようで、最高のコンディションだったコーヒーは、着実に香りの高さと温度を下げて行っている。
 ベルナルドがそこまで動揺するような手紙。その手紙は、ベルナルドが一人でデイヴと交渉に行く前に、ジャンへ残して行った未練だ。
 
「も、もう捨ててくれて構わないんだぞ? ジャン」
「ひどいわダーリン、アナタとの愛の歴史を捨てろだなんて言う気?」
「……ひどいのはどっちだい、ハニー?」

 深い溜息をついたベルナルドの手が、にやにやと笑っているジャンの頭を手の甲で軽く叩く。ジャンは痛くもない力加減に喉奥で笑い、机に頬杖をつきながら、ベルナルドの顔を見上げた。彼は、困った顔で笑っている。
 きっちりとネクタイを締めてスーツをまとい、組織に忠実で辛抱強く、必要とあれば容赦のない男。ひどく冷たい目も出来る癖に、この男は自分の前では素直に困ったり弱ったりする。そして、昔から変わらない柔らかな親愛を、愛情を、ジャンに向けて来た。――多少、こういう関係になってイロはついたが。

「なあ、ベルナルド。あんた――いっつもどういう顔して、この手紙の最後みてーな言葉、書いてたんだ? どういう顔をして、俺のこと考えてた?」

 ふと気になったことをジャンが尋ねると、ベルナルドは、すっと笑みを消して真剣な表情になった。威圧にも似た真面目な空気に、ジャンは僅かに首を竦めながら上目にベルナルドを見る。いつの間にか熱を帯びていた視線に一瞬心臓が跳ねて落ち着かなくなった。
 腰を屈めてジャンと視線を合わせたベルナルドは、真剣な顔で言う。

「ジャン。俺は、お前のことを一人で考えている時、とてもとても見せられたものじゃない自信がある」
「――真面目なツラして言うことかよ、このダメオヤジ!」

 ジャンは目前の額を指先で弾いてやった。







2009.12.05