チリとシュガー




 ベルナルドの部屋は、狭いながらもバスタブがついていて、シャワーからはちゃんと湯が出て来る。非常に快適だ。
 俺はその快適さを味わって、綺麗さっぱり色々なものを流してから、やっと昼飯の支度を始められた。オリーブオイルにニンニクを放り込んでじわじわ温めてると、匂いに腹がぐうぐう鳴って来る。

「いい匂いだ」

 家主サマはすでに満腹のような満面の笑みで、そうのたまう。
 
「そりゃ俺が? それともフライパンの中身?」

 背後に立ったベルナルドに、鼻先を髪に突っ込まれながら言われると、ヤツが何を嗅いでるんだかワケがワカランので質問する。ベルナルドは答えずに、鼻先を俺の耳の後ろにすり寄せた。丁度手に持ったばかりのトマトが、力の入った俺の指にぐちゃりと潰れる。
 湯剥きされて身を守る皮をなくしていたトマトは、残念ながらたやすく俺の指に蹂躙された。それをフライパンに放り込む。ジュウッとオイルに弾ける音がした。

「美味そうだな、ジャン」
「邪魔する気か? ベルナルド」
「とんでもない」

 おとなしくしているさ、とあまり信用のおけない明るい声でベルナルドは応える。ナイフで燻製肉をスライスし出すと、その言葉の通り、ベルナルドはただ背後に立って俺の作業を見るだけに留まった。
 このキッチンに置かれていたナイフはよく研がれていて、トマトだって玉ねぎだって肉だってすぱっと切れる。シンクも綺麗なものだ。フライパンも焦げがこびりついていたりもせず、新品に近い。棚にも油汚れがこびりついたなんかカケラもないなと辺りを軽く見回し、俺は、棚の一箇所に目を留めた。棚の隅は食器を置いてあるようだったが、そこには白い皿が数枚と、白いマグカップがひとつだけしか見えない。

「なあ、ベルナルド。この城、王様の分しかカップねえの?」
「――ああ、そうだった。すまん、ジャン、食後のコーヒーの代わりに瓶ビールでいいか? カップが俺の分しかない」
「昼っから酒ってステキな時代ね、ダーリン」

 ベルナルドも棚を見て、お前の分のカップも買って来ればよかったなと困ったように言う。

「あんた、客とメシ食ったりコーヒー飲んだりココでしないのけ?」
「ここに長時間、誰かを入れたことはないよ。部下が必要なものを持って来て置いて行くくらいだ」
「フーン」

 何気なさを装いつつ、俺はちょっとだけホッとしていた。
 この居心地のいい、ベルナルドの城を、他の誰かがゆっくり味わったことが――あったんじゃないかと思うと、多少、胸の端が痛まなくもない。

 微妙な嫉妬とナイフを置いて、フライパンに肉を放り込む。味付けに塩を入れてると、肩に重みが…顎が乗って来た。甘えすぎなんじゃないですかーベルナルドさんーと口にするのも面倒で無視して、塩の瓶の蓋を閉じる。咎めずにいると、腹の方に腕まで回って来た。
 イチャイチャしてるみてーだけど、それはちょっと恥ずかしいのでまだ認められない。ベタベタまではどうにか許容範囲だ。ベルナルドはどうも今日、ベタベタと俺にくっついて来る。

「ねえ、ダーリン、重いわー。乗っかるのはベッドの上でにしてちょうだい?」
「ああ、今のはぐっと来るな。…このくらいなら?」

 ふざけたことにふざけた返事が返って来て、肩にかかっていたベルナルドの頭の重さが退いた。しかし頭は退かず、俺の首筋に頬を埋めるようにして、ベルナルドはそこにいた。
 あとは煮込むだけのフライパンではくつくつと泡が膨れては消え、トマトの水分が蒸発して煮詰まって行く。

「……おい、ベルナルド。メシ作ってる時にのしかかっちゃダメって大学じゃ教えてくれなかったのけ?」
「残念ながらね。でも、お前がナイフを使っている時には、大人しくしてただろ?」

 腹に回ったベルナルドの腕は胸にまで上がって来てから、ぎゅっと甘えるように力がこもる。

「……メシ、食うんだろ? ベルナルド?」

 囁くと、また俺を抱く力が強くなる。その強さに、んぅ、と俺の肺から息と声が漏れた。振り返ろうとしても、がっちりと抱かれていてままならない。

「どしたの、ダーリン。何か今日、……抱くのが時々乱暴よ?」

 一瞬、どう言っていいものか迷った挙句、俺は下ネタに走ることにした。

「今日はそういうプレイ?」
「んー、なんでもないよ、ハニー」

 ちょっと寒いからかな、などとぬかした情けなオヤジは、下ネタに乗らなかった。
 最近薄らいだベルナルドの作る壁がまた姿を現したようで、俺は気分がよろしくない。ので、肩に顔を伏せたベルナルドのつむじを指で弾くことにする。

「……痛いぞ、ジャン」
「痛くしてんだよ。何かへこんでんだろ、このヤロ」

 さすがに顔を上げたので、そこを見計らって振り返る。弾いたつむじを撫でてやり、チュ、と唇に音を立ててキスをすると、面食らったようにベルナルドは目を瞬かせた。そして力を抜くように口元を緩ませ、笑う。

「へこんでるわけじゃないんだけどね。なんだか、夢のように思えてな。お前がここに…俺の部屋にいるなんて。そりゃ、妄想しなかったとは言わないけど」
「まあ、正直だこと」
「――ほんとに、夢みたいだな」

 夢のようだとウットリして見せるなら可愛いもんだ。
 しかしベルナルドの瞳は不安に揺れていた。俺がここにいることを、夢じゃないかと疑っている。
 現実にここにいてベルナルドと――もういい認めてやる、イチャついてますが何か? な俺は、気分が相当よろしくない。

「ベルナルド。パスタ、茹でなきゃ食えないぜ。もー、俺、腹へって腹へって死にそう。スパゲティあるだろ?」
「ああ、そうだな…下の棚だよ」

 未練がましそうな顔をするベルナルドの肩を軽く押し、体を離す。棚から出て来たスパゲティを受け取り、座れねえから椅子の上の本片付けてくれよ、と頼みながらベルナルドをテーブルに向かわせた。


 そして俺はトマトソースにこっそりとトウガラシを大量にぶち込む。


 もうすぐ茹で上がるパスタと絡めて皿に盛り、チーズをおろして、黒コショウを振ってドレスアップもしてやるつもりだ。
 赤と白と黒の飾りをまとった淡いイエローのパスタを、フォークを添えてテーブルへ。小さなテーブルで俺とベルナルドは、湯気を挟んで向かい合う。何の警戒もない、平和な昼食風景が目に浮かんだ。

 ――お味はどう? ダーリン。

 そう訊けば、ベルナルドは感想を言うべく先に食い出すはず。
 赤いトマトソースがベルナルドの口に入り、舌の粘膜に触れたら、辛みが相当刺激的に暴れ出すだろう。ベルナルドは辛さに黙りこくるか、それでも頑張って食うか…俺はそれを見ながらテーブルに身を乗り出し、距離を縮めて、こう言ってやるつもりだ。――辛かっただろ。目が覚めたか?

 ハイ。グンモーニン、ダーリン。夢の中じゃないぜ。ああ、舌が痛いのね、かわいそうにダーリン。嘗めてやろっか?

 そうして俺も辛さに涙目になりながら、Oh my gosh! と、一緒にひとしきり呻いてやるって。
 俺は、それくらいお前と運命を共にする気があるってことだ。からい、ってわかってても一緒に嘗めてやる。
 これはベルナルド、お前の夢なんかじゃない。
 なかったことになんかしねえっての!ああもう、この情けなオヤジ!ダメガネ!!

 こんなこと言わせるなよ。今更過ぎて溜息が出ちまうぜ。


 ちなみにジェラードなり砂糖なりを一嘗めすりゃ、舌の上の辛さのダンスはびっくりするほどあっさり幕を引く。
 人生に必要なのは、ベルナルドはコーヒーに入れたがらない一杯の砂糖なんじゃねえかな。
 辛さも甘さも一緒に味わおうぜ。
 なあ、ダーリン?







2009.12.01