As the dog says




 裏通りのリストランテから表通りに出ようとすると、ジャンが珍しく小石に躓き、よろけて、横のベルナルドのコートの袖を掴んだ。痩躯だが長身の幹部は、子供に寄りかかられただけのような顔をして上手にジャンを支えてくれる。

「うおっと。サンキュー、ベルナルド」
「いや、気に――」

 しないでくれ、と微笑むベルナルドの声にかぶって、パン、と風船が弾けたような音がした。
 反射のような素早い動きで、ベルナルドがジャンを今しがた出て来た脇道へ突き飛ばす。うわお、と慌てたジャンの声に、また風船の弾けたような音が、今度は二回、三回と続く。

「――ベルナルド!」

 どうにか受身を取ったジャンは、手のひらを擦り剥いたことのジリッとした痛みなどよりベルナルドの安否が先に立って飛び起きる。周囲の音と気配を探ろうと全神経がオープンになったような感覚があって、産毛が総毛立った。表通りのベルナルドの様子を見るべく身を乗り出し、手は自分の懐を探り――しかし丸腰だった。ジャンは自分の甘さに舌打ちをする。表通りに耳をそばだてながら、建物の壁にぴったり身をつけた。そのまま身を沈め、ひとまず何かの役には立つだろうと落ちていた石を手のひらに握り込む。

 また弾けた音がした。銃声。ジャンが角から少し身を出して通りを覗くと、ベルナルドは近くにあった車を盾に大型の拳銃を構えて撃ち込むところだった。立て続けに三発撃つ。少し遅れて反撃に一発、ベルナルドが隠れている車のフロントガラスを撃ち抜いて蜘蛛の巣のようなヒビをびっしり走らせる。
 ベルナルドはもう一発反撃のあった方向へ撃ち込む。彼が射撃の後、舌打ちをするのをジャンは聞いたような気がした。弾切れか残り弾数がもう少ないのだとと察してジャンは背に嫌な冷たい汗を感じる。口に入れたままだったガムを奥歯で噛んで、落ち着け、と頭の中で唱えた。

 見ると、撃ち返して来ているのは少し離れた距離の車の影――しかも結構な高級車の影に潜んでいる男だった。どこかで見た覚えがある気がするが顔を確かめている余裕がジャンにはない。心臓がドクドクと鳴った。男の持つ拳銃の先が、車の影からタイミングを見計らっているかのように見え隠れする。読みも思い切りも悪い動きだった。それのタイミングを見計らって――ジャンは手の中の石を握り直した。
 振りかぶり、男の近くへと手の中の石を投げつける。当たらなくていい、出来るだけでかい音を立てろと祈りながら投げた石は男の脇にあったドラム缶にぶつかり、石の大きさの割りに派手な音を立てた。
 男の反応は大きかった。ベルナルドへ銃を向けた腕がびくりと震えて、ブレた手が思わず引き金を引いたらしい。銃声が弾けて、弾はおそらく明後日の方向へ飛び、建物に当たった。その隙にベルナルドが拳銃を構え、一発撃つ。男はパニックのように立て続けに撃ち返し、すぐに音は止んだ。弾切れだ――だがベルナルドももう残弾はないのだろう、追い討ちをかける様子がない。

 相手は一人で、しかもビビった様子からして場慣れしていないだろう。逃げるな、と反射的にジャンは思っていた。それならば、逃走経路は――自然とベルナルドとは逆側になる。
 ジャンは脇道へ引き返し、男が逃走するであろう方角へ先回りをすべく全力で走り出す。途中野良猫を二、三匹驚かせながら駆け、表通りへ出る別の路地を抜けると、ちょうど男が車の影からこちらへ身を翻すところだった。

「こンの…ヤロウ!」

 ひゅ、とジャンの踵が空を切る。ジャンの身軽な後ろ回し蹴りは、背後のベルナルドばかり気にしていた男に見事に命中した。唐突に出て来たジャンの姿に、追っていたベルナルドがぎょっと目を見開く。

「ジャン!」
「ベルナルド、無事か!?」
「お前こそ!」

 言い合いながらベルナルドは倒れた男を背後から地面へ押さえ込む。ジャンは急いでベルトを外すと、それでベルナルドに押さえ込まれている男の足首を縛り上げた。

「ジャン、俺のコートのベルト抜いてそれでこいつの手の方もやってくれ」

 頼みながら、ベルナルドの手が何やら動く。押さえ込まれた男がビクンと震えて短い悲鳴を上げ、急に抵抗がなくなった。指の骨の一本でも折ったのかもしれない。
 暴れなきゃよかったのにね、としみじみ呟くジャンが、頼まれた通りにコートのベルトで男の手首を頑丈に縛ると、今度は立ち上がったベルナルドがウェストのベルトを外し出す。ベルナルドがベルトを外すところなど見たことがなかったジャンが物珍しげに見ていると、あんまり見ないでくれ、と苦笑しながら、ベルナルドは男の膝をそれで縛った。

「さて――大丈夫か?ジャン。怪我は」

 革靴の底で男の肩を蹴り、道の端に移動させながらベルナルドが尋ねる。ジャンはひょいと両手をホールドアップのように挙げ、

「ちょっと擦り剥いただけだよ。俺が狙われてたわけじゃねーしさ。俺の、相手にされない小物っぷりに今は感謝したい気分」
「お前のラッキーのお零れに感謝したいよ、俺は」

 眼鏡のリムを悠々と押し上げて、ベルナルドが笑う。

「ほんと助かった、ジャン」
「いや、俺はなんも…」
「そうか?お前が躓かなかったら、俺はソレに当たってたと思うんだけどね?」

 そう言ってベルナルドの指し示す先を見て、ワオ、と、ぞっとした顔でジャンは呟いた。
 少し離れた場所――先ほどベルナルドが立っていた位置から、もしかすると1フィートも離れていない位置の壁が銃弾で抉られている。

「ぞっとしねえ…」
「ハハ、俺もだ」

 ベルナルドは軽く笑ったあと、すっと視線の温度を下げ、道の端に転がっている男を見やった。

「さて、――CR:5の仲間内で撃ち合いをしろと言ったのは誰だ?それともお前一人のおつむで裏切ることを考えたのか?教えて貰おうか」
「命令すんじゃねえ、このコウモリめ…」

 痛みのせいか、男が呻くような声を喉から搾り出す。上等そうなスーツが台無しの姿で。

「あれ?ベルナルド、こいつ」
「ああ、ジャンもドン・カヴァッリのお供の時に見たことがあるかもしれないな。CR:5のメンバーだよ。親父殿が、役員がたと懇意の有力者だ」
「あー、そうだ。どっかの爺様ばっかの集まりの時に、顔見たんだ」

 若い男が自分とこの男くらいしかいなかったので覚えてた、とまじまじと地面に倒れた男の顔をジャンが眺めてると、血走った目で二人を――ベルナルドを見上げた男は、ぺ、と唾を土へ吐き捨てた。支配階級特有の威圧的な、見下した視線が憎悪を込めてベルナルドを見上げる。

「成り上がりの癖に偉そうにしやがって…!何で、お前が幹部候補になんか…!」

 嫉妬かぁ、とあまりにわかりやすい理由にジャンが溜息をつきたい気持ちになりながらベルナルドを見上げると、彼は、困ったようにゆっくり目を瞬かせていた。

「……確かに俺は裕福な――有力者の家の出ではないが」

 僅かに躊躇いながら言うベルナルドの声に、ジャンは少しだけ眉を顰めた。ベルナルドが男の言葉に呆れながらも、有力者の力を知っていて、バカが、と切り捨ててしまえていないことが、何となく悲しかった。立派な男だと思っている男が、正当な評価を受けないことが。

「……そりゃ、家の力ってのもあるだろうけどサ。実力もなきゃファミーリアがダメになっちゃうからだって、子供にだってわかるぜ?」
「そっちも、何がラッキードッグだ!成り上がりのサノバビッチ!」

 思わずジャンが口を挟むと、即座に矛先が向いた。罵声を向けられたジャンは、歯をむき出して吠える男に少しも怯まずに困ったように笑って首を捻る。

「うわー、ウチのマンマに聞かせられねえな。こいつがゴメンナサイって泣き出すまで鞭でひっぱたくぜウチのメスゴリラ。ベルナルドー。このヒト、口悪いなぁ」
「まったくだ。ジャン、教育に悪いからお耳を塞いでおくといい」
「ハァイ、ダッド」
「……それは止めてくれ」

 本気の声でベルナルドが言うので、ジャンは軽く肩を狭めて応じた。先ほど銃弾を食らいそうになっていたとも思えない二人の落ち着きとは打って変わり、地面の男はまだジャンに噛み付こうと吠える。

「どこの出かも知れん、イタリア以外の血が混ざってるかもわからないビッチが!」
「あのさー、ビッチビッチって、俺、男なんだけど?」
「ハ、そのツラとブロンドに血迷う変態も多いだろうよ!ラッキードッグなんて噂に隠れて、役員のジジイどもをどうたらしこんでんだ!?ガキのくせに、そこのヤロウにもどうせケツ貸して――」
「黙れ」

 男の矢継ぎ早に喚いた言葉に、地を嘗めるような低い声音がベルナルドの喉から零れた。聞いたことのない声音に、ジャンの目が軽く見開く。
 ジャンへの罵倒に、冷静だったベルナルドのグリーンアイに血の気が宿った。その威圧に、ひく、と男の頬が引きつる。

「今すぐ口を閉じろ、そして二度と開くな、このチキンが。貴様にCR:5の刺青を入れる勇気がよくもあったな。いいか、二度と同じ言葉を言ってみろ、その舌を裂いて二股にしてやる。蛇のように、いや、蛇に例えるのもおこがましい、腐れ野郎――」
「あらやだ」

 淡々とした激昂の溢れる場に男声の女口調が響いて、その場の緊張感をあっという間に壊した。
 空気を壊したジャンは、横の殺気立ったベルナルドをちらりと見上げる。

「俺はそんな尻軽じゃなくてアナタ一筋だって言ってやって、ダーリン」
「はっ……?」

 一番に動揺したのはベルナルドだった。殺気に満ちていた目は、ジャンに向く頃には驚きの色しかない。

「ジ、ジャン?お前、なにをふざけて」
「いいじゃないの、ダーリン。ふざけたヤロウにはこっちもふざけてやろうぜ、――まともなオハナシする気はないみてーだし?」

 二人に注視されたジャンはそう言うと、余裕のある様子で噛んでいたガムに空気を入れて膨らませ出した。膨らんだガムはやがて、ぱん、と割れてジャンの唇にへばりつく。ガムのついた唇をにやりと歪めた顔を見て、男は、ようやくジャンにからかわれているのだと気づいた。この野郎、と低く唸る声がしたがベルナルドはそちらを見ずに、ジャンを見ている。先ほどまで今にも殴りかかりそうだった肩の力が抜けていた。力が抜けるままに、ベルナルドはジャンへ気楽なジョークを返す。

「……人前で言うことじゃないだろ、ハニー?それともお前、そういう趣味だったか?彼に見せ付けてやろうか」
「バカン、ダーリンこそそういう趣味なんじゃねえの――ダーリンの隠してるブツ、見せてやる気?」
「ハハ、そうだな。あんまりデカイブツじゃなくてすまないね、ハニー」
「いいのよ、そいつの腹の中にブチ込むなんて浮気しないでくれるなら」
「わかってるさ――」

 ジャンとジョークを言い合う声とは一転し、ベルナルドの声は、ぞっとするような低くひそめたものになる。その頃には、大きなベルナルドの手には似つかわしくないような小型銃が彼の手におさまっていた。41口径、デリンジャー。大きなベルナルドの体にはいくつも隠せそうな拳銃。身動き出来ない男のみぞおちを突くように、その銃口は押し付けられる。

「俺のブツは短いが、根元までしっかりと埋めれば、」

 男に押し付けられた銃口は、胸の上を左右へ動き、なぞった。心臓の上はどの位置か探るように。男の喉から、ひ、と声の混じった息が漏れる。近接射撃の準備に、ベルナルドの指に力がこもり、手の甲に骨のラインが浮く。

「充分にイかせられる――」

 男が顔を引きつらせた瞬間、ベルナルドは銃の底で男のこめかみを殴りつけていた。














「なあ、なんで撃たなかったんだ?そりゃタマまで取らねーと思ったけどさ、足くらいなら撃つかと思った」

 気絶した男を部下に連絡して回収させたベルナルドは、迎えに来たセダンの後部座席にジャンも乗せた。二人で座席に座っての帰り道、ジャンが横のベルナルドへ尋ねる。
 ベルナルドは指を一本立て「いい質問だ」ともったいぶった後、ふっと悪戯っぽく笑った。

「簡単だよ、経費節減だ。弾だってタダじゃない」
「ワオ、素敵な倹約っぷりねダーリン」

 ジャンの軽口混じりの相槌に、ベルナルドが一瞬真顔になって止まる。だが、口の中のガムを膨らませようとし出したジャンが、ベルナルドのその一瞬の様子に気づかないうちに、また微笑みを口元へまとわせた。

「ハニー、そのネタ気に入ったのかい?」
「ダーリンこそ、気に入ったのけ?」
「けっこうね」

 広い肩を竦めるベルナルドの返事にジャンは笑って、竦めた肩に自分の肩を――ぶつけるつもりだったが、身長差のせいで座っていても肩位置は合わない。ジャンはベルナルドの肩に頬を寄せるようにして、見上げた。

「――で、俺はダーリンのホンモノのブツはデリンジャー並みなのか聞いてもイイのかしら?」
「教えてもいいけど教育に悪いから、教える間、お前はお耳を塞いでおいで」

 長いベルナルドの指がジャンの耳朶を少しだけ擽るように撫でてから、手のひらを押し当てて耳を覆う。耳を片方塞いだまま、車が着くまで寝ててもいいよ、と子供を甘やかすような声でベルナルドが言うと、肩に凭れたジャンの目蓋は素直に落ちる。
 蜂蜜色の目が目蓋に閉ざされたのをしっかりと確認してから、ようやくベルナルドは双眸に動揺の色を浮かべ、車の中や流れて行く景色へうろうろ落ち着かなく視線を動かし出した。







2009.10.27