Buona notte




AM1:00



 いい匂いがした。
 腹が減るような――欲求を思い出すような、いい匂いだ。
 夢の中でも匂いがするのは珍しい。俺の夢はモノクロだ。夢の中は人によって大きく差があるらしく、俺は味わったことがないが匂いや味のあることもあるそうだ。俺の夢は今までずっとモノクロで、匂いも味も、時には音すらなかったのでそのまま一生縁のないものだと思っていたが、今夜はどうやら匂いのある夢デビューらしい。しかし視界には何もない、薄暗い。暗い場所は今だに苦手だったが、いい匂いに気を取られていると、気にならなかった。
 匂いのお陰で暗闇を恐れずに済んでいる俺に、ふっと柔らかい感触が触れる。羽のようにささやかに。それは繰り返し俺の唇に接触する。気持ちがよかった。
 もっとくれ。もっと欲しい。触れる先から、眠りについていた欲求が体の内側で目覚める。もっと、と声になったのかわからないが訴えると、近くで笑う気配がさざなみのように俺に伝わった。やがて、ちゅ、と唇の位置で音がしたので、俺はキスをされていたのかと思いつく。
 思いついた拍子に俺は目を開けていた。

「起きたか?狸寝入り…でもなさそーだな?」

 俺に覆いかぶさっている男が、聞き慣れた声を俺に与えてくれる。
 ジャン、と俺の口が反射的に呟いていた。小さくつけた間接照明の淡い光に照らされた金髪がきらきらと光を撒くのを俺は見る。いい匂いも、キスの心地よさも彼が原因だったようだ。
 彼にここまでされてなぜ目が覚めなかったのか――いや、これはまだ夢の中なのか…意識がゆらゆらと揺れる。
 気持ちがいい。ジャンの指が俺の前髪を梳いて、髪の中で指先が遊ぶ。撫でられている。頬に唇が触れて、それから目蓋の上にも。額にも。キスは俺の鼻筋を通って唇に戻る。そうして蜂蜜色の目が俺の顔を覗き込み、甘い囁きを唇に吹き込んだ。

「タダイマ、ダーリン」
「……ジャン?」
「なぁに、怖い夢でも見たのかよ?バクが必要なら、掃除屋んとこにいないか聞いてやろっか?」

 ジャンは肩を揺らして悪戯っぽく笑う。夢を食う幻の生き物――中国の御伽噺だったか。夢を食う…いや、それはダメだ。

「ダメだ。夢を食われると、ジャン、お前が消えちまう…」
「……おい?ベルナルド、おーい、寝てんの?」

 不思議そうに問われ、ようやくそこでぼんやりと返事を返していた意識が覚醒した。気づいてみればここは夢の中でもなんでもない。俺の寝室だ。ジャンがしょっちゅう潜り込んできたり、ジャンをしょっちゅう連れ込んだりするので、大きなサイズに買い換えたばかりの俺のベッド。

「ジャン」
「ん?」

 呼ぶと、優しい声が返って来た。
 恋人になる前までは知らなかった甘い声のトーン。その優しさに目を細めながら、俺はジャンの頬を指の背で撫でて、顔を寄せ、鼻先をすり合わせる。甘い仕草にジャンは笑った。しかし、甘ったれめ、と言うお前の声の方がずっと甘いってことを、ジャンは自分では知っているんだろうか?

「こうするのもお前にだけだよ、ハニー」
「そうしとけ、そうしとけ。こんなのイヴァン辺りに見せたらビビられんぞ」
「なんだ、ジャン。お前、あいつらにこんなところを見せたいのか?」
「なっ、ワケねーだろ!!」

 本当にするとでも思ったのか慌ててジャンが首を横に振る。髪から風呂上りの石鹸の匂いがして、さっきのいい匂いはこれとジャンの微かな体臭の混ざったものだと知った。触れた肌もしっとりと暖かい。風呂上りのジャンを、湯冷めしないように毛布の中へ引き込む。

「悪いね、夢とごっちゃになって……」
「誰の夢見てたんだよ。俺以外の夢見るなんてひどいわ〜」

 おとなしく毛布の中へ入って来たジャンが、少しもひどいと思っていなさそうな声でふざける。俺は笑うジャンを片腕で抱き込み、体の上へ引き寄せる。

「勿論お前の夢だよ、マイスィート」

 定番のようなダーリンハニーのおふざけを繰り広げながら、ジャンの腕も俺の腰や背へ回り、ぺったりとくっついて――

「……ベルナルド」

 なぜかジャンが少し驚いた顔をした。

「今日見ないだけでちょっと薄くなったんじゃねえの?」
「ハハハ、前髪が?」
「ダーリン、自分でギャグ言って落ち込むなよ…」

 見透かさないでくれ、ハニー。

「腹が、……お前、ほんっとに薄いよな」
「そうか?ジャンだって同じようなもんだろ?」

 言うと、納得がいかないようでジャンは俺のわき腹や腹に手のひらを押し当てている。俺はされるがままだ。気の済むまで付き合おうと思いながらジャンの背を撫でる。
 撫でたジャンの背に綺麗についた筋肉の感触はあるが、手ごたえは華奢だ。勿論女のような華奢さではないし、折れそうな細さではないが、似たような背丈のイヴァンの体の厚みとは違う。ルキーノは、まぁあれは規格外だ。一番似た雰囲気なのはジュリオだが、あれもサラブレッドのような筋肉のかたまり。ジャンの男にしては細い腰を撫でながら、やっぱりお前と同じようなものだろうと言うと、即座に否定された。

「俺は食ったぜ。朝も食ったし、昼も食ったし、ジュリオとアイスだって食ったし、新しく出来たリストランテでディナーも食った。――ベルナルドは?」
「……朝にルキーノがカッフェを一杯、請求書付きで」
「ルキーノが?」
「わざわざ俺の目の前で砂糖を山ほど入れてくれたけどね。あいつ、いつもあんな甘いの飲んでるのか?」
「あー、あいつ酒もやんのに甘党だよなぁ」
「午後にはジュリオが報告がてらカフェ・コレットを。土産のブランデーを入れてくれてね」
「いいブランデーだったろ?向こうの爺様が太っ腹でこれが美味いこっちも美味いって持たせてくれてさ、今度の幹部会の後で呑もうぜ」
「それはいいな。それから、夕方にはイヴァンが新しいシノギの提案書を持って来てね、じょうずに出来ていたから飴ちゃんをあげたらキャラメルと交換してくれた」
「へー。イヴァンもやるなー、あんたに褒められるなんて。それから?」
「今、お前を齧ってる」

 囁いて鼻先を軽く齧ってみたが、ジャンは誤魔化されなかった。

「……食ってないってことね」
「ああ、…………いや、その、多少は。ほらイヴァンがキャラメルをくれたから」
「そりゃ脱獄後ならそれで”栄養を摂った”とか言えるかもしれねえけど!?食ったって言わねーよ……」

 呆れた顔をしたジャンが俺の首筋に顔を伏せる。駄目な人ねダーリン、と唸るような声で呟かれた。俺は、明日は食うよ、と囁くと、そうしてくれ、と頷かれる。ジャンの頭が動くのにつられて金髪が首筋へもそもそと触れ、くすぐったい。

「ダーリン、アナタの一日はなんで出来てるのかしら?朝食とか昼食とか夕食とかって言葉じゃ出来てなさそうだよな」

 俺の耳元で歌うように言うジャンの手が、俺の腹から胸へ、肉付きを確かめるように這い上がって行くのもくすぐったい。くすぐったいと言うか、……ジャン、お前も男だし、俺とのこういう付き合いも一日や二日の仲ではないんだから、そうされると俺がどういう気持ちになるのか察してくれはしないものかな。無邪気にぺたぺた触られるのも、警戒されていなくて可愛いんだけどね。

「脂肪のかけらくらいつけろよ。そのくせ腕は結構筋肉ついてやがんだからなー…可愛くないぜ」

 ジャンの手のひらが俺の肘へと移った。手首の方へ撫でられるので、俺は腕を引き上げて、ジャンの手のひらと手のひらの位置を合わせて握る。
 握り合わせる動きで指の股をするりとこすり、親指で手の甲をさすると、エロオヤジ、とジャンがからかう声音で囁いた。顔を傾け、俺の首筋へ額を擦り付けるようにして笑っているジャンの髪にキスを落とし、言う。

「俺の一日はコーヒーとファミーリアと、マイハニー。そんなもので出来てるよ」
「女の子を見習ってオサトウとスパイスくらい混ぜてあげてね、ダーリン」
「ジャンが言うなら仕方がない……」

 殊勝な返事をし、俺は握ったジャンの手を――俺の手ごと、俺とジャンの体の間に――ジャンの下着と肌の隙間から突っ込んで潜り込ませ、中でジャンの手を離す。あらぬ場所に手を突っ込まれたことで、へ?と声を漏らしながら顔を上げたジャンの手の甲から、俺の手を重ね、下着の中の少しだけ反応したものを……なんだジャン、お前ちょっと勃ってるじゃないか。俺は、さっきからの接触のせいか反応しているジャンのものを、二人分の手でこするように促し――…

「……おい。おい、なぁ、ちょっと、待て――ウェイト!ベルナルド!!」
「どうした?」
「この野郎、寝るんじゃねーのかよ!なに元気になってんだ、このエロメガネっ!」
「寝込みを襲ってきたのはお前じゃないか」
「おやすみのキスだろ!?」
「俺はあれで気持ちよくなっちまった――それにお前が言う通り、マイスィートと、刺激的な時間を俺の一日に混ぜようかな、と思ってね。お前の言うことはまったくもってもっともだ、ジャン」

 しれっと言ってみせると、ジャンは言い返す言葉を探して唇を何度か動かしかけ、やはり閉じるのを何度か繰り返す。結局、その口は俺の鼻先を齧るために使われる。
 それからジャンの腰がくねって俺の手に擦り付けられたので、俺はそれを行為続行への了承だと受け取って、一日の終わりを満たされた時間にすべくジャンの唇へキスをした。

「くそう、甘ったれのダメオヤジ…」

 お前が俺を甘やかすのも悪いと思うぞ、と頭の中でダメな犯罪者のような責任転嫁をしながら、何度もキスをした。


 俺の一日はコーヒーとファミーリアとジャンカルロで出来ている。







2009.10.21