Ciao




PM6:00



 うんざり、と言えるものなら言いたいのだろう。座って書類を見ている俺の前に立ち――座って待てばいいものを急いてそこを動かないイヴァンは、隠す気もなく唇を歪め、不機嫌そうだ。さては、彼から渡された帳簿と、新しいシノギの計画……俺のシマやシノギにも関係するので俺からの協力が欲しいと言うその計画書を見た俺の返事が、もし「No」だったら、と言う想像に耐えていると見た。再提出。数字が違う。こんなアバウトな内容で協力は出来ない。
 イヴァン、残念ながらその想像は無駄になる。

「エクセレンテ」

 そう言うと、一瞬怪訝な顔をされた。

「あ?何でだよ?」
「なんだイヴァン、Noと突き返されたかったのか?それなら俺もやぶさかではない――」
「ふっざけんな!受け取っとけ!」

 イヴァンは奥歯を噛んで喉の奥で何か呟く。ファック、だろう。こいつの口癖だ。俺の手元の書類を見て、まだ怪訝そうにしている。
 昔、下っ端の頃に顧問の孫の家庭教師をしたことがある。勉強の苦手な子供で、けれど教えるうちに満点を取れるようになった。採点の後にエクセレンテと褒めると、その子供もちょうどこんな顔をした。
 深い苦手意識は、それがクリア出来てしまうとなぜ出来たのか不思議に思わせてしまうものだ。例えば俺の狭い場所や、暗がりが怖い――など、出来っこないと思っていたものがクリア出来てしまうと、世界がひっくり返ったような気持ちになる。

「数字もきっちり合っているだろ?」
「あ、ああ、そりゃ…金勘定任せてるヤツにも何度もチェックするように言っておいたしよ」
「今までの取引の帳簿の方もだが、計画書にあった収入予測の計算も、数字も、気になるところはどこもなかった。俺の概算でもその金額と大差ない。いい定期収入になるだろう。俺の方から話を通すよ、うちの兵隊の中で顔の利くヤツがいるから今度連れて行って――イヴァン、いつまでそんな顔してんだ」
「はっ?」
「そこまで言動を疑われるのも悲しいね」

 冗談半分で、手のひらを上に向けて嘆いてみせる。ちなみに半分は本気だ。あまり「何言ってんだこいつ」と言う目で見ないで欲しい。俺は仕事の話をしているだけで、宇宙人の存在について熱を入れて語っているわけじゃない。

「イヴァン、お前は頭の回転の速いところがあるし応用も上手い。用心深さは仕事で思慮深さになる。帳簿の数字も、見方が身についていないだけで苦手ではないと俺は思うね」
「バカにしてんのかよ」
「俺は褒めてるつもりだぜ?」

 おいイヴァン、今度は気持ち悪いものを見る目で見るな。たまに褒めて何が悪い。
 思い切りうさんくさそうな顔で俺を見てから、イヴァンは、ようやく状況を飲み込んだようだ。にや、と唇の端を上げて、それから唇がはっきり弧を描く。

「ありがとよ!いや、お前にも悪くねえ話だとは思ってたんだけどよ、そうだろそうだろ」

 ……どうしてこいつはすぐに調子に乗るんだ。いっそ感心する。
 俺の内心の感心など知るよしもない男はうんうんと満足げに頷くと、俺の前に身を乗り出して卓上の帳簿を引き取る。帳簿の重要な数字は計画書の方にも書いてあると、俺にいくつか説明をしてから、イヴァンは帳簿を片手に身を離した。

「じゃあな、俺はもう行くぜ」
「ああ、チャオ――そうだイヴァン、お使いのお駄賃は要るか?」
「うるせぇ!どこのジジイだ!」

 机の中のロリポップを差し出すと、イヴァンはにべもなく悪態をつきながらもそれを手持ちのキャラメルと交換してくれた。一人残った部屋でぺりぺりと包みを剥がすと、コーヒーフレーバーのキャラメルが出て来た。少しコーヒーが飲みたい気分だったが、甘ったるい味を口の中で転がしていると、その嘘くさいフレーバーで俺はなぜか満足してしまっていた。
 今日は皆コーヒーを持って来るので、コーヒーを自分で淹れに行くことも、「コーヒーを」と言い出すこともない。今日は随分とサーヴィスのいいことだ。ラッキードッグが留守にする前に俺にラッキーを残して行ったのかもしれない。
 夕食を摂る代わりにキャラメルに血糖値を上げて貰いながら、俺は、イヴァンの持って来た書類を部下に渡し、指示を告げた。腕の時計を見ると午後の六時。ジャンは、今頃食事だ。



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2009.10.21