林檎の月



 ジャンが傍にいると、俺はリラックス出来た。精神の真ん中、魂の真ん中にぴんと真っ直ぐに糸が張る。コーサ・ノストラの男として立ち、自分の能力最大限の力が振るえる。それは今までに感じた事のない、鮮やかな、満ち足りた感覚。重要な場所だけは適度な緊張感を伴ったままで、無駄な力が抜ける。俺はリラックス出来た。
 そう、ジャンがいると俺はバランスが取れる。
 欠けたピースを嵌め込まれたらこんな気持ちになるのだろうか。
 眩しい太陽。その暖かさを、俺は秘密を守る壁越しに味わう。それは俺の無駄な力を溶かしてくれた。視界や思考を曇らせる記憶を明るさで照らしてくれた。
 ジャンに出会って、俺は変わってしまった。心はほんとうに震えるものなのだと言う事を知ってしまった。眩しく柔らかな幸福感を知ってしまった。
 お前がいなければ。俺は。








 その日は徹夜明けで、昼間も仕事が詰まっており、俺は普段より疲労していた。睡眠が足りていない。
 しかし、俺は畳み掛けるような仕事を、普段より高いテンションで苦もなく乗り切った。今夜はジャンと久しぶりに食事をする約束をしている。
 店は、CR:5の息のかかった店の中でもパスタの美味い店を選んだ。代金は勿論俺の財布から出る。ジャンの、脱獄祝いだ。イタリア料理に、と言うか美味い料理に飢えているだろうと思ってのチョイスだったが、ジャンは出て来た湯気の上がるスパゲティに心躍らせ、ワオ、と短い賞賛の声を上げ、遠慮なくそれを平らげた。俺はそれを眺めながら、釣られるようにしていつもより量を食べた。それでもジャンは、あんた相変わらず小食だよな、と言い、俺の残したペンネを掻っ攫って行く。俺の食べたものと同じものをジャンが食べる。美味そうに笑う。それは、幸福と名づけても俺にとって差し障りのない時間だ。
 人間は、テンションも緊張感もずっと続けられるものではない。顔を合わせて変わりない言葉の応酬と寛いだ気持ちを味わっていれば、幸福感に緊張は緩む。不意に思い出したような眠気に、俺はついつい欠伸をしてしまう。そこを、甘いチョコレートアイスを銀のスプーンで掬っていたジャンが、なぜか凝視して来た。思わず俺も見つめ返す。
 あまりにじいっと見つめられていたので、欠伸で滲んだ涙を拭うタイミングを逸してしまった。まずい、と思った瞬間にはもう遅い。ぼろりと涙が右目から一粒零れ落ちた。
 小さな子供がガラス玉でも見つけた時のように、ジャンの目がきらっと輝く。俺が間抜けにもその目に見惚れていると、ジャンの指が俺の方へ寄って来て、顎先から上へ、涙の筋を拭った。目じりにも指は迫って来て、俺が反射的に片目を瞑ると、ジャンの指は丁寧に濡れたそこも拭って行く。

「珍しいもの見ちゃったワ。誰に泣かされたの、ダーリン?」
「――グラッツェ。眠気にだよ、ハニー」
「ちょっと目が赤いぜ、ベルナルドおじさん」
「徹夜明けだからかな」
「大丈夫か?メシなら、また今度でも良かったのに」

 あんたの顔は見たかったけどさ、と付け足すところに、お前の優しさを見れば良いのか、俺に会いたかったのかと自惚れれば良いのか。その判断を、まるで恋する少女のように俺は少し迷った。迷い過ぎて沈黙が出来る前に、答えを出すのを保留とし、俺は肩を竦める。

「久しぶりに会えたのにつれないな、マイ・ダーリン。お前の脱獄を心待ちにしてたのに」
「俺の出所じゃないのけ?」
「出所するつもりだったのか?」
「アラやだわ、まさか」

 ふざけて言うジャンと、声を潜めて笑い合う。チョコレートアイスがジャンの口の中に消えて行く。俺の手元には何も入れていない真っ黒なコーヒー。苦い筈の味が、ジャンの美味そうに平らげる顔を見ながらだと、やけに舌に甘い錯覚がした。

「――なぁ、あんたの目ってさ」
「ん?」
「薄くて、青い林檎みてーだろ? アップルグリーン」

 薄い蜂蜜色の目をした彼は、平らげたアイスのガラス皿を脇へやり、テーブルに身を乗り出した姿勢で俺の目を覗き込んでそんな事を言う。

「嘗めて見たらジュースの味でもすんの?」

 戯れの台詞が、自分にとってひどい誘い文句になってしまう事を彼は知らない。

「さあ、どうだろうね。そういうジャンの目は蜂蜜色だな、嘗めたら甘いのか?」

 自分のふざけた台詞にそれを想像した。ジャンの頬に伝う涙を嘗めて、拭い取る。体液で舌を湿らせる。浅ましく喉が鳴りそうになる。

「甘かったら俺、人間じゃねーな」
「人間じゃないと困るな」
「そうけ? ラッキードッグなのは変わりねーかもよ?」

 わん、と犬の鳴き真似をしてみせるジャンは、悪戯っぽく笑っていて、眩しい。そんなお戯れをおニィさん相手にあんまりしていると、首輪をつけたくなっちまうだろう。困った子だ。
 しかしそんな考えはおくびにも出さず、俺はわざとらしい演技がかった仕草で片手を自分の胸に当てる。

「人間じゃなかったらこの世のものではないんだろう。天か、妖精の国か、月にでも帰られてしまいそうで、俺はおちおちお前の傍から離れられなくなってしまうよハニー」

 離れられなくなってしまえたらそれも幸福だろうが、生憎、俺には俺の仕事があるので、現実はそうも行かない。大体、ジャンは人間だ。









「見ろよ、ベルナルド!」

 ゆっくりとコーヒーを飲み終えた後、先に店外に出たジャンからはしゃいだ声が聞こえた。存外子供らしい所もあるのだとぼんやり思っていると、ハリー! と急かされる。

「すげえ月だ。ほら見に来いって!」
「月?」

 俺も店の戸をくぐって外へ出ると、周囲の明るさにぎょっとした。店に入った時は僅かに夕暮れの名残が残っている時間だったが、今はすでに夜で、俺の嫌な暗がりが多く存在する時間になっているはずだった。そのはずが、やけに明るい。
 皓々と輝く満月が、銀色の光をデイバンへ降り注いでいた。

「これは――凄いな、そうか、今日は満月か」
「な! すげえ月だろ!」
「ああ」

 雲ひとつない空に穴を開けたような、見事な満月。その下で、まばゆい金髪が空を仰ぎ、すげー、と興奮の面持ちで呟いている。

「雪の夜みたいだな」

 俺は思わず呟いた。明かりを雪が反射して眩しい、雪の夜のようだ。ひんやりと静かな雪の日を思い出す。見慣れた町並みが、月光ひとつで神秘的に見える。
 ジャンがいるその光景は、とても美しく見えた。
 いつもは、暗闇が恐ろしいのに。

「ジャン」
「なんだよ、ベルナルド!」

 離れないでくれ。

「――月の国に帰らないでおくれよ、ハニー」

 そばにいて。
 戯れた台詞の影に隠れた願望に気づかないでいてくれたジャンは、弾けるように笑った。

「どこにも行かねーよ!」

 ジャンは俺を見上げて、あ、と何かに気づいたように目を瞬かせる。視線が俺と繋がっている。何か顔についていたのだろうか。

「ん? どうした、ジャン」
「あんたの目ん中にも月がいる」

 そう言った彼の目にも月の明かりが――それから、彼を見つめる俺がいて。ああジャンの中に俺がいる、と思った瞬間、俺は、反射的にジャンに身を寄せていた。
 背を丸め、屈み込むようにして、ジャンの耳元に頬を寄せる。そして、少しだけ体重を預ける――甘えるように。

「うわっ、何ですかこの酔っ払い」
「はは、呑んでないよ。お前も知ってるだろ。――ジャン」
「どした?」
「…ジャン」

 凭れるだけでなく、腕を回してそうっと抱きつく。腕の中、ジャンの体温が俺に沁みてくる。その体温はじわじわと俺の深い場所にまで辿り着き、痛みを伴った幸福感で心を震わせる。

「……ベルナルド?」

 怪訝そうなジャンの声が耳の近くで聞こえた。背を抱き返してくれる腕が、俺の背をあやすように叩く。不意に泣きそうになったのをこらえる。抱いた細い体は、女とは違う頑丈さがあったがが、それでも俺の腕にすっぽり収まってしまいそうな手ごたえだった。出会った頃に比べて背は伸びたが、伸びた背に肉が追いついていないためかまだ少しだけ大人の男になりきれていない幼い体。――ジャンの骨格を辿るように肩を擦ると、内臓が疼くような感覚がした。睡眠の不足が、性欲の不足に摩り替わっているのだろうか。滑稽だった。可笑しくて、ふふ、と笑うと、息がジャンの耳にかかったのかもしれない。抱いた肩がびくんと震えた。

「あのな、ハニー。――実は、眠くて眠くて仕方がない。寝そうだ」
「って勘弁しろよ!」

 俺じゃ運べねえだろあんたでっかいんだから、と耳元で慌てて喚くジャンの声に、軽く笑ってから俺は腕を解いた。しょうがない年上の男に解放されたジャンは、軽く俺の腕に触れて、支えるような仕草を見せてくれる。

「寝るならお前運ぶためのブルドーザーかリンカーン手配してからにしてちょうだい、ダーリン。ついでに俺も家まで送って」
「いいよ。リンカーンでもかぼちゃの馬車でもなくて悪いが、普通の車なら向こうの角で待っているはずだ」
「ワオ、さっすが幹部」

 早く行こうぜ。ジャンの声に、楽しい時間の終わりを感じて寂しくなった。だが、ジャンと俺の関係が終わる訳ではない。気の置けない年の離れた友人。俺は、ジャンの中でそれなりに確固たる存在となっている自負はあった。そのポジションは、揺るぎはしない。

「けど、ジャン。お前、いまどこに住んでるんだ」
「前住んでた家の近く。大通りのとこまででいいんだけど?」

 具体的な場所を言わないのは、誰かの家へ転がり込んでいて、長居はしないつもりなのだろう。女か――と思うと、俺の胸は勝手に痛んだ。子供のような独占欲だ。誰か俺以外のやつの目に映る月を、お前が覗き込んで、その月のもとへ帰って行く事を考えると胸は痛む。人のことは言えないくせに、と内心で自嘲した。恋人はいる。しかし、家庭としての想像は上手く出来なかった。想像していた充足感を持ったものとしてのイメージは、どうしても出来なかった。ベルナルドの帰る場所は常にCR:5だ。


「ジャン、まだ俺の目に月はいるかい」
「おうよ」


 願わくば、お前がこの月へ戻って来てくれますように。







2009.10.06