半径50センチメートル立ち入り禁止






 その日の俺はほぼ徹夜だった。しかも肉体疲労のオマケつきと来た。原因はねちっこいセクハラオヤジと、ベッドで明け方まであーだーこーだしてたせい。
 睡眠が足りないのはダメね。と気付くのが、その日はちーっとばかし遅かった。

 最初は休憩中のことだった。
 煙草を切らしたベルナルドに、横からさりげなく差し出されたルキーノの煙草。貸しか、貸しだ、と短い言葉と、グラッツェ・プレーゴのやり取り。歳が多少近いだけあって――ルキーノは全力で否定しそうだけど――年齢の醸し出す雰囲気が、二人は似ている。どっしりと構えた落ち着きとでも言うんだろうか。幹部で一番古株の男は、さすがにその席に馴染んでいる。経験と実績っつー裏づけに満ちた立ち振る舞いとでも言うのかね。交渉の場やパーティーでもそうだ。ルキーノの生来かっつーくらいの堂々とした、目を惹く立ち振る舞いとは少し違う、だがけして引けを取らない落ち着いたその場相応の振る舞い。声をかけて来るオンナにも優しく、それでいて無礼にならない程度の壁のある態度を取り、それでもかけられる声は消えねえんだろうな――
 ベルナルドの長い指が煙草を摘み、淡い色の睫毛を少し伏せながら深く吸う。ヤツの形の良い鼻のラインを、俺は何となく目線で辿ってしまった。そして、ルキーノと二人分、同じ匂いの煙草の煙が俺の傍で香る。
 眉間に皺が寄ったのは無意識。

「……どうした、ジャン?」
「あ、いンや、なんでもねえ」





 その次は、ジュリオ。
 仕事の報告に来たジュリオの、去り際の顔色がいつもより悪く見えて、声をかけようと腰を浮かせた俺よりも早く、ベルナルドが動いた。
 ベルナルドの指がジュリオの肩に触れて止める。ジュリオも嫌がったり警戒する素振りはない。
 そういやベルナルドは、ジュリオのボンドーネ家のことも俺より詳しいっけ。ジュリオも、イヴァンとか相手に比べると態度が落ち着いている――あれは歳の近いヤツに突っかかって互いに遠慮ねえっつー、孤児院のチビどもの中に必ずいたようなコンビと同じようなもんだろうけどな。そういう相手よりも、ベルナルドとは言葉はちゃんと視線を交わして、意思を通じ合わせて――いる。あいつは幹部筆頭で、面倒見もいい。いろんなヤツラを気にかけてる。そりゃ勿論ルキーノも面倒見はいいし、イヴァンだって部下のことはしっかり面倒見てる。当たり前のことだ。何で俺は今日に限ってこんなこと考えてんだ?
 そんな俺が見ている先で、ベルナルドはジュリオと何やら喋り、ジュリオは俺の方を慌てて振り返り、少し寝不足なだけです、とはにかんで言った。

「……だ、そうだよ。安心してくれ、ジャン。……ジャン?」
「あ、ウン、そうね。サンキュー」





 次はイヴァンが、ランチの時間をだいぶ回った頃にホットドッグの入った袋を抱えてやって来た時だ。メシまだなんだよ、と部屋の中で食いながらのイヴァンからシノギや街の様子の報告を受ける。
 もう行くぜ、と席を立ったイヴァンを止めたのはベルナルドだった。片腕を上げて制する。

「……ちょっと待て、イヴァン、お前、ケチャップつけたまま外に行く気か?」
「あぁ? 別にいいだろが、こんなん」

 イヴァンは舌うちしながらも、ベルナルドから差し出されたハンカチをちゃんと受け取り、……昔だったらそんなやり取り見れなかったんだろうな。幹部の皆も、随分とそれぞれ親しくなった。ベルナルドも、組のために関係の調整をつけようとしているんじゃなくて、ただ、仲間を気にかけているだけだって言うのが見ていてわかる。今だってイヴァンにケチをつけてるわけじゃねえし、イヴァンだってそんなことは考えてないだろう。舌打ちしてても、ダチに――俺に対するものと同じ、じゃれる程度のモンだ。イヴァンはベルナルドを認めている。ベルナルドもイヴァンを認めている。互いに仲間であり、運命を共にするファミーリアだってことを信じている。本当に親しくなった。ハハ、いいことだ、いつもだったらフツーにそう思うのに、俺、今日は何なんだろネ。

「ジャン? お前、具合でも悪いのか?」
「へ?」





 それから――

「なんでオヤジは俺の執務室でホットドッグなんぞ食ってらっしゃるのかしらん」
「さっきイヴァンから一つかっぱらった」

 アレッサンドロ親父は、さっきからベルナルドにずっとやんわり飲み屋の領収書の受け取りを断り続けられ、今は一時休戦らしい。ソファーに居座って、ホットドッグを大口で平らげている。

「貰ったと言えばいいでしょう、顧問」

 アレッサンドロ親父の前の席でコーヒーを飲むルキーノが、いささか呆れたような、それでいて敬意は消えない、親しみのある態度で肩を竦めている。俺とベルナルドも同じソファーで何も入れないコーヒーを一緒に飲んでいた。
 俺はオヤジの食いっぷりを見ながら、首を傾げる。

「オヤジさ、ジャンクフード食ってからどっかのオネエチャンとこ行くの止めたら? 腹、気になるお年頃でしょ?」
「馬鹿野郎、お前とは筋肉の量も消費するエネルギーも違う」
「ベルナルドの何倍食ってんのか今度比べてみたら?」
「なんだ? ベルナルド、お前、そんなに食ってないのか。しょうがない。俺の秘蔵のチョコレートをやろう」

 オヤジは、ベルナルドの方を見ると、ポケットに入れていた小さい箱を取り出した。蓋を開けると、貝型のチョコレートが綺麗に並んでいる。

「あ、いえ、顧問、そのような」
「まあいいから食え、これは昨日飲み屋のねーちゃんから貰ったありがたいチョコレートだ。あの領収書の飲み屋のねーちゃんだからこれでお前も同罪だぞ、ほら口開けろ、領収書と一緒に受け取れベルナルド」
「こ、顧問、私で遊ぶのは止めて頂けますか」

 ルキーノ相手の時のように強く却下とは言えないベルナルドの骨ばった肩を、オヤジはがしりとでかい手で掴み、口にチョコレートを突っ込もうと――

「――オヤジ!」

 思わず強く呼んだ声に、アレッサンドロ親父の手が止まる。

 睡眠が足りないのはダメね。ナーンカ、理性とか? そういうモンが? 消えちまうみたい。と気付くのが、その日はちーっとばかし遅かった。

 ベルナルドの腕を引っ掴んで、部屋を飛び出しちまってから気づいても、もう遅いわけで。
 ああ、ファック! 笑ってんなベルナルド!!






「……ファンクーロ。息子の可愛がってる犬に触ったら”その子はパパのじゃないのボクのなのー”ってヤキモチやかれた気分だぞ、ガブリエーレ」
「それは……」

 ルキーノは、お気持ちお察ししますよ、オヤジ、とだけ、堪え切れずに笑い声混じりに呟いた。








2010.05.18.